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ヴィックスバーグ市(英:Vicksburg, Mississippi)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州ウォーレン郡の都市である。ニューオーリンズからはミシシッピ川とヤズー川を遡って北北西に234マイル (377 km)に位置し、州都ジャクソンからは真西に40マイル (65 km)の位置にある。人口の推移を見ると、1900年で14,834人。1910年で20,814人、1920年で17,931人、1940年で24,460人となっていた。2010年の国勢調査では23,856人である〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧〕。ウォーレン郡の郡庁所在地である。 ヴィックスバーグはウォーレン郡全体を包含するヴィックスバーグ小都市統計地域の主要都市である。 == 歴史 == ヴィックスバーグの地域にはまずフランス人が入り、1719年、ヤズー川を見下ろす高い崖の上にサンピエール砦、今日のレッドウッドを建設した。しかし、先住民族が10年後にこの開拓地を殲滅した。1790年にスペイン人によってこの地に建設された軍事基地はノガレスと呼ばれたが、アメリカ人が1798年3月に占領したときにウォルナットヒルズ(スペイン語のノガレスはウォルナットの木という意味)と名前を変えた。 不規則に拡がった地域社会が発展して、1825年にヴィックスバーグとして公式に市制を布いた。この名前は、メソジストの牧師でアメリカ合衆国の独立について良心的拒否者ニューイット・ヴィックに因むものだった。南北戦争のとき、ここはビックスバーグの包囲戦の場所となり、北軍がミシシッピ川全体を支配するようになる重要な出来事となった。47日間に及ぶ包囲は市内の者を飢えさせて降伏に追い込むためのものであり、ミシシッピ川を見下ろす高い崖の上の陣地は北軍の攻撃にも十分耐えると分かったからだった。南軍ジョン・C・ペンバートン将軍は7月4日(独立記念日)に降伏することで降伏の条件が少しでも良くなると期待した。その日に兵士達に武器を置かせ、ユリシーズ・グラントや北軍の部隊が市内に入ることを認めた。ペンバートンは包囲戦中の自分の行動をその後悔やむことになった。ヴィックスバーグ市は第二次世界大戦中まで7月4日を祝うことは無かった。ヴィックスバーグの占領と時を同じくして、ゲティスバーグの戦いで南軍のロバート・E・リー将軍が敗れ、南北戦争の転回点となった。 ヴィックスバーグ市がミシシッピ川沿いにあるために、19世紀におけるその評価は川の驚異的な蒸気船の交通によっていた。1881年から1894年の間、ミシシッピ川に1859年から1898年まであった著名蒸気船会社アンカー・ラインは、「シティ・オブ・ヴィックスバーグ」号という蒸気船を運航した。1876年、ミシシッピ川洪水でヴィックスバーグを過ぎる大きな屈曲部が切り取られ、新しい水路を通ることが制限された。アメリカ陸軍工兵司令部が1903年にヤズー川の向きを古く浅くなった水路に変え、川岸を蘇らせた。西部への鉄道は渡しの蒸気船やフェリー・バージに頼っていたが、1929年に鉄道と高規格道路の複合橋が建設された。これはメンフィスとバトンルージュの間の唯一の鉄道橋であり、ナチェズとグリーンビルの間の唯一の道路橋だった。州間高速道路20号線の橋が1969年に架かり、貨物列車は今も古い橋を使っている。南北を結ぶ交通はミシシッピ川とアメリカ国道61号線に頼っている。 1894年3月12日、ソフトドリンクの人気商品コカ・コーラが、地元の菓子屋ジョセフ・ビーデンハーンによってヴィックスバーグで初めて瓶詰めされた。今日でも残っている19世紀のビーデンハーン・ソーダ瓶はコカコーラ記念品の収集家によって付加価値が付けられており、その菓子店はビーデンハーン・コカコーラ博物館となっている。 ヴィックスバーグは1927年のミシシッピ大洪水のときに避難民の主要な集合地点と一時的な住まいを提供した。この洪水はニューイングランドの面積にほぼ匹敵するミシシッピデルタを水没させた。この洪水によって、アメリカ陸軍工兵司令部の水路実験施設が設立され、主要な水力実験室となって川から守る手段を開発した。この施設は現在土木研究開発センターと呼ばれ、軍事工学、情報技術、環境工学、水力工学および地質工学の分野で機能している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Vicksburg, Mississippi 」があります。 スポンサード リンク
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